「お葬式をしない」といった、お葬式に対する批判について、要約してみると
�ー�分は仏教徒ではないのに、なぜ死んだら仏式で葬儀をあげなくてはいけないのか
・・死生観の多様化、信仰心がない、寺檀制度の薄れ、
�⊆�分は家族や知人だけに見送られたいのに、 なぜ、あまり関係ない人にまで迷惑をかけて大げさに死んでいかなくてはならないのか(地味葬志向)
・・「死や葬儀は個人的なもの」という感覚、社会儀礼的なものへの反発
��生きている者こそ大切なのに、なぜお葬式に巨額のお金をかけなくてはいけないのか(簡素派)
・・「自分のために家族がお金のことで無理して欲しくない」という考え
�せ爐麓�分のものなのだから、自分の意志どおりのお葬式をしていいはずなのに、なぜ、世の中の慣習にあわせたお葬式をしなければいけないか(自由派)
・・個人主義、地域社会の崩壊、高齢者の中にも戦後派が登場してきたこと
�イ�葬式は生きている者の世間体を飾るだけのものになっているのではないか。そんなお葬式はしなくていいのではないか
・・現状のお葬式が「故人のため」とはなっていない、とする考え
といったところですが、実は「お葬式をしない」と言っても、その内容はさまざまです。
自分たちが常識的にイメージしている姿のお葬式をしないことがそのような表現となっています。
お葬式をしたくないと考えている人は、お葬式そのものを否定しているのではなくて、現状のお葬式が自分たちの考えるお葬式とは異なるということになります。
しかしながら、自分の考える死のデザインと家族の死に出会った遺族の弔いとは常に一致するとは限りません。
自分の死だけが全てではなく、遺された者にとっての死ということも当然存在します。
一人の死を巡って、周囲のそれぞれがそれぞれの仕方で死を体験しているのです。
お葬式という儀礼は、社会的には「死者を死者として認める」ということであり、死を告知する意味に加えて、死者の尊厳を社会的に承認することを意味しています。
死者が、仮に社会的には無名であったとしても、葬式を営むことは、その死者が生きた人生への尊厳、共感を寄せ、かけがえのない一個の人格、いのちとして尊重して、その死を惜しむ、ことなのです。
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参考文献「葬儀概論」 碑文谷 創 著(表現文化社) 「葬儀大事典」 藤井正雄 監修(鎌倉新書)